時間があるとふらふらっとブログを読みに行きます。
Feedly (ブログリーダー)に登録してあるものだったり、知り合いのだったり、Twitter でたまたまみかけたものだったり、まあいろいろです。
で、たまに見かけて「はぁ~」とため息をつきたくなることがあります。
それは過剰に謙遜している文言を見かけたときです。
駄文って言葉があります。
僕もたまに・・・いや、よく使います。
なにせ駄文が最高だと思ってますので。
だって無駄だと思っていたものが
面白かったりするんですから。
そういうプラスの意味で使っているならまだわかるのですが、そうではなく本当に駄文であるかのように自分が書いたものを「面白くないです」「有益なことは何もないです」と書いてあるのを見かけると、わざわざ自分で言わなくてもいいのになぁと残念な気持ちになります。
だって面白いか面白くないかは読んだ人が決めることです。読む前から書き手がそれを決める必要なんてどこにもない。
もちろん駄文と評されることはあるかもしれませんが、その時はその時。
うるせぇッ!って突っぱねるもよし。
次はいい文章を書こうと反省するもよし。
そうかそういうふうに感じる人もいるのかと理解しておしまい。よほどの誤解が生じているのでなければ、過剰に凹む必要も弁解する必要もありません。
じゃあどうしてそういう謙遜をしてしまうかというと、怖いからです。
つまらない、しょうもない、こんなこと書いて恥ずかしいなどの不安な気持ちや後からくる評価に保険をかけるために、あらかじめ下げた言い方をしてしまうのだと思います。
先に面白くないといっておけば、期待値を下げられる。読むことを無理強いしているわけでもないし、もし面白くないと感じられたとしても許してもらえるだろう。
そんな気持ちが透けて見えます。
よく言えば、やさしさ。
わるく言えば、ずるがしこさ。
僕も謙遜しながら読んでくださいって言ってることがありました。でもある時、それは読んでくれる人に対して失礼だなと思いました。
だから謙遜したくなった時はグッとこらえて「よかったら読んでください」とだけ言うようにしています。
謙遜しないのはなかなか難しいです。
どう思われるか怖いし不安だし。
それは今でもあまり変わりません。
不特定多数に公開するって、思いのほか勇気がいることです。
でも実際に変なことを言われることってそんなにありません。何度か厳しいご意見をもらったこともありますが、ちゃんと読んだ上で反応してくれたことにありがたさを感じました。期待に応えられず申し訳ないなとは思いましたけど。
だから「○○のことを書きました。よかったら読んでみてください」というくらいにしておいて、あとは読者にゆだねるでいいと思うのです。自分としては、ただ書いておきたかった。それだけで書いて公開してもいいのです。
あと、お話に「オチがない」ということを気にしてる人も見かけます。
これもね、全然気にしなくていいと思うのです。
淡々とこんなことがあったと書き連ねる。
情景や心象を丁寧に言葉で紡ぐ。
それだけで読み手はその出来事を追体験できます。
ドラマチックなオチがつくことばかりではないでしょう。
そんな話であっても、まずは「書こう」と思った気持ちを大事にして書けばいいと思うのです。それで「ああ、そんなことがあったのね」と伝わったのなら、それでいいじゃないですか。
こんなことがあったというだけでは物足りないのなら、一ついい方法をお教えします。それはその時のことを振り返って、今の自分が思うことや今の自分にとってどんな意味があるのかみたいなことを、そっと添える程度に書いておけばいいのです。そしたらどうして「書こう」と思ったのかが伝わりますからね。
小説には純文学とエンタメがあります。
エンタメはオチがつきますけど、純文学にはいろいろなかたちがあります。何を言っているのかよくわからないみたいなものもある。
でも小説としてきちんと存在しているし価値があるとされている。そんな純文学の作品には、ちょっと物足りないくらいでスッと終わるものがたくさんあります。でもそれでいい、いやむしろその方が余韻が残っていいなのです。
ブログだって一緒です。エンタメばかりじゃ疲れます。そうじゃない文章にも価値があるし、読者はそれを見つけてくれるはずです。だからオチは無理してつけなくてもいいと思います。
僕は故意に人を傷つけなければ、わりとなんでもいいと思います。仮に意図せずして誰かを不快にさせたなら、素直に謝るなり議論をするなり、その時に対応すればいいとも思います。
だから自分のブログ、自分の文章は、自由に書いて「よかったらどうぞ」の気持ちで公開すればいい。
そこに謙遜はいらないと思うんです。
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