さくらももこ展の記事をひとつ書いたのですがね。
それとは別に、現地で感じたことをどうしても書いておきたいので、調子に乗ってもう少し書くことにします。
まずですね、
会場に入ってすぐのパネルに
さくらももこの息子である
三浦陽一郎さんの言葉がありましてね。
僕はその「ごあいさつ」を読んで
おもむろにスマホを取りだし
その一節をメモしました。
母は理屈っぽい私とは対照的に直感で動く人間だったので、面白さに目的や理由を求めず、ただただ突き進んでいたのかもしれません。
なんとなくですけど、
「面白さに目的や理由を求めず」
という言葉が引っかかったんです。
ええ、
何もむずかしい話じゃないんですよ。
「ただ面白がる」
そういうことだと思うんですけど、それってどういうことなんだろうと。
そして意外とできてないんじゃないかと。
そんな漠然とした疑問を持ちながら、
僕はさくらももこの世界に入っていきました。
そして、たくさんの原画や生原稿を前に
ビビビときた言葉を拾いまくります。
あとはその都度、感じたことを
メモ、メモ、メモ ……
まんが、エッセイ、日々のくらし、
ナンセンス、カオス、シュール、etc…
さくらももこワールドを堪能して
もうすぐ終わりという展覧会の終盤。
コジコジ第19話
「カエルの生き方 の巻」
の見開き2ページの原稿の前で
僕はハッとなりました。
記憶喪失の謎のブルガリア人、ジョニー。
彼がカエルに質問します。
「あの…ちょっと聞くけど、キミたちって何の役にも立たないだろ?ボクもそうなんだ。そのことについてどう思うかい?」
カエルたちは答えます。
「は?役に立つかどうか?」
「どうでもいいじゃん、そんなこと」
「オレたち、ただモーレツに生きてるだけさ」
「役に立つかどうかなんてさ、あとから誰かが言うことだろ」
「オレたちゃ誰かの言うことより、自分のことは自分で決めるのさ」
ジョニーは自分を振り返ります。
「ボクは今までモーレツに生きたことなんてあっただろうか…」
「記憶を失う前のボクはモーレツに生きていたんだろうか…それとも…」
「だめだ、これじゃだめだ、モーレツに生きよう」
「カエルのように……!!」
カエル、やべぇ……
カエルにリスペクト……
もうね、カエルになりたいと思いましたよね。
高校3年生のときに書いた作文が「現代の清少納言」と称されたことからエッセイまんがを描くことを思いついたという、さくらももこ。
その作品の多くには
「体験」
がベースにあります。
『ちびまる子ちゃん』を筆頭に
自身のことを振り返る作品たち。
静岡県・清水のこと。
健康やくらしや子育てのこと。
とにかく自分が体験してきたことを作品として表現し、人を楽しませるということを全力でやっていたのだと思うのです。
そして、
その原動力は「感動」すること。
展覧会の第3章の「ももこのまいにち」では
その感動を随所にみることができます。
たとえば、
子どもと向き合う毎日は、発見の連続。
日々の小さな出来事に感動し
それを絵日記や絵本というカタチにして
新しい創作の幅を広げています。
また、
さくらももこは民芸品の収集もしていて
会場にも世界各地から集めた民芸品が
展示されていました。
その解説の文中にあった
ももこの言葉が
これまたいいのです。
「人の力ってすごいなぁ」と感動するような細かい仕事をしている物が特に好きだ。チベットの曼陀羅や、中国のビンのなかに描いてある絵や、ロシアやインドの細密画や、ヨーロッパの複雑機械腕時計など、「こんな細かいことができるなんて本当にすごい!」と行く先々で感動している。
この文章を読んで、
「いやいや、僕はあなたの作品に同じことを思ってますよ」
って言いたくなりました。
帰りの電車でメモを見返しながら
会場で最初に抱いた疑問のことを
考えました。
面白さに目的や理由を求めない
っていうのは、
素直に感動する
ってことなんじゃないだろうか。
そして、
全力で感動しながら生きる
というのが
モーレツに生きる
ってことなんじゃないだろうか、と。
そんなことを思って
「俺もモーレツに生きるぞぉぉぉッ!」
と心の中で叫びながら、ふと気が付いたら
をポチっていたのでした。

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