母親の作る玉子焼はしょっぱかった。
たぶん親父の舌の好みに合わせていたのだと思う。親父は塩辛いものが好きで、甘いものは苦手な人だった。
今ならご飯がすすむので、しょっぱい玉子焼のよさもわからなくはない。でも子どもであれば、あまい玉子焼の方がおいしいと感じる子が多いのではないだろうか。
僕は大人になった今でも相当に甘党なので、玉子焼も当然あまい方が好きだ。だから自分で作る時は砂糖をたくさん入れて、塩は隠し味程度に少ししか入れない。たまに作る玉子焼。家族の評判はまずまずだ。
正月。
実家に集まったときに、妹が つきぢ松露 の玉子焼を買ってきていた。
つきぢ松露は、江戸前寿司から生まれた玉子焼専門店。もともと松露寿司として商いをしていたが、終戦後にネタの調達に苦労するなか、店先で焼いていた玉子焼が評判となり、昭和21年から本業として「松露の玉子焼」のダシの味を確立していった。
毛筆で屋号が書かれたシンプルなパッケージ。
少ししっとりした箱を開けると、きれいな黄色が目に入った。「わあ、きれい」と子どもたちは目を輝かせた。ほんのりと焼き目がついた玉子焼を箱から出し、均等に切り分けた。
小皿にとって眺める。
切った断面を見ると、うすい玉子の層がきれいに巻かれているのがわかる。ところどころに空気の入ったすき間があり、決してぎちぎちに詰まっているという感じではない。
箸でひと口大に切り、そのままいただく。
あまい。
冷たいけれど、固くはない。ふんわりとした甘さが口の中に広がる。砂糖をたくさん入れた甘さではなく、ダシのきいた甘さだ。それでいて後味はすっきりしている。すっとからだに溶け込んでいくような甘さだ。
「母さんが作る玉子焼きはしょっぱかったよなあ」
「だってお父さんがしょっぱいのがいいって言うんだもの」
「母さんの好みはどうなの?」
「そりゃこういうあまいのがいいわよ」
僕がそんな話を母としながらひと切れ食べる間に、子どもたちは次から次へと口に運び、あっという間に至福の玉子焼はなくなった。
親父はきっと正月の空の上で頭でも搔いているんじゃないかと思った。

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