2020年6月。
ひたすら本を読んでいました。
本屋さんで目について心が動いたものを片っ端から買いました。読んだ本のなかで紹介されている本も買いました。小説、エッセイ、ビジネス書など、ジャンルを問わず少しでも気になったら、とりあえず買いました。それだけでは飽き足らず、絶版本などは図書館から借りてきました。
そうしてL字型のデスクの傍らに、日に日に積みあがっていく本の山。そこからその日の気分で本を取り出して読みました。1日1冊どころか、つねに数冊を並行して読んでいるような状態。基本的には全部読むけど、つまらないと思ったら途中でやめる。いずれまた読みたくなるだろうということで、あまり深く考えず心の赴くままに読む読む読む。
そんな感じで本を読みまくっていました。
もともと本を読むことは日常でしたが、ここまで貪るように本を読んだことはありませんでした。この非日常的ともいえる読書を意識的にやりました。どうしてそんなことをしたのかというと、あることを試したかったからです。
それは
「書くことを忘れてみる」
ということでした。
今年に入ってから、ずっと「書く」ってどういうことだろうと考えていました。
ぼくは2006年からブログを書いています。このブログは2019年から始めましたが、そのずっと前からなにかを「書く」ということをやってきました。ブログを長いことやっていると、日常を記事に結びつけることは、そう難しいことではありません。それどころか、目の前で起こっていることを体験しながら、つねに頭の中で記事にしている自分がいるような感じですらありました。
でも、実際にブログに書くかどうかというのは別問題でして、気分が乗らないと書かなかったりするのです。写真もたくさん撮ったし、記事の構成もほぼできている。でも、書かない。きっと誰かが書いているだろうと思ったりすると、今一つ書く気が湧いてこない。そんなこんなで書かないのが続くと、書かなくてもいいか、となります。誰に頼まれているわけでもないですから、ぼくが書かなくても誰も困らないですしね。
この「脳内執筆をつづけている自分」と「書かなくてもいい自分」のあいだで、ずっとモヤモヤしている感じでした。「僕は書きたいんです!」っていうのが、なんとなく嘘くさく思える。魂の叫びみたいな書く動機もそこまで持っていないしなぁという感じで、どっちつかずだったのですが、それでも、たまに気まぐれに書いて、SNSでシェアして、感想をもらえたりすると、それはそれで嬉しかったりします。
さらに、好きな作家の本を読んだり、バズっているブログを読んだりすると、うまく書きたいという欲も出てきます。そこで、文章の量や文体などを考え始め、いろいろと試行錯誤をしてきました。1月末から急に「である調」になったのはそのせいで、あれはあれでよかったのですが、でも、なんとなくしっくりこない。モヤモヤがとれない。そんな状態が続きました。
で、6月に入るときに、ブログのことを一旦忘れて、本を読みまくってみることにしました。中途半端に何かを書こうとしている頭を強制的にストップし、ただひたすらに読むことを楽しんでみようと思い、片っ端から読みまくったのです。
そうしたら、いろいろなことがわかりました。
まず、自分が買った本をずらっと並べてみると、どんなことに興味があるのかがよくわかりました。実際に本を読みすすめていくなかでは、自分も書いてみたいと思うような文章や、これはとても書けないという文章など、いろいろな文章に出会いました。そのつど、どうしてそういう文章を書きたいのか、どうして、自分には書けないと思うのか、といったことを考えていくと、抱えていたモヤモヤが少しずつ晴れていきました。
そしてまた、書きたくなってきました。
書いては考える、考えては書く。そうして一歩ずつ前へ進みながら、ある決断を自分で下していく。
人間は書くことを通じて考えを進めていく生き物です。
『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』という本の一節です。ぼくは6月がもうすぐ終わろうとする日にこの文章に出会い、ハッと気づかされ、しばらくしてパーッと目の前が開けた気がしました。
たくさんの本を読んで考えようとしていましたが、思い返せば、そのあいだもスマホのメモ帳には、たくさんの文字を打ち込んでいました。結局、書きながら考え、考えながら書いていたのでした。
どんなことであっても、文字にして、文章にすれば、自分の考えを前に進めることができる。これに勝る「書く意味」はない。
だから、また今日から書き続けていこうと思います。
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