ろぎおについて

ひどい文章術の本 田中泰延『読みたいことを書けばいい。』

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僕は人やモノのことを、悪く言わない。

いいところを見つけようとするタチだ。

 

ひろしではない。

性格という意味だ。

 

その対象が本であるなら、なおさらだ。

僕がなぜ本を読むのかといえば、知りたいことがあるからだ。

 

僕は無知だ。

 

だから本を読む。

素直に読む。

 

批評なんてとんでもない。

それができるほどの知識もない。

 

僕は無知なのだ。

 

せっかく読むのだから、一つでも多く何かを得ようとして読む。

 

そのための準備もぬかりなく行う。

 

おもてに「けっして中を覗かないでください」という張り紙をした和室で正座。

姿勢を正して3分ほど精神統一。

緑茶を一口すすり、体調を万全な状態に整える。

 

読むときは1ページずつ味わうようにして読む。

心拍数が少しでも上がったら、一旦休憩。

著者の考えを正確に理解しようとすれば、冷静さを欠くわけにはいかない。

 

 

『読みたいことを、書けばいい。』

 

 

しかし、この本は何だ。

まったくひどい本だ。

 

ここまで感情を揺さぶられ、動揺してしまうなんて、完全に想定外だ。

 

これはもうモノ申すしかない。

最初のページで、そう思った。

 

人間なら、理性が働く。

そこまで憤ることもないだろう。

 

僕はゴリラなのかもしれない。

 

 

 

そうは思ったものの、僕はとても小心者だ。

 

SNSが発達した今、人の不幸は蜜の味どころか、やめたくてもやめられないアレみたいなものだ。

 

いや、こんな例えは不謹慎なので、やめておこう。

 

ダメ、絶対。

 

とにかく、人はキラキラ輝くポジティブ意見以上に、ドロドロしたネガティブ意見を好奇の目で眺めたい生き物のはずある。

 

だから、僕がモノ申そうものなら、どういった形で扱われるかわからない。

小心者の僕にとっては、なかなか高いハードルだ。

 

それでも、この気持ちを書かずにはいられない。

それくらい、ひどいのだ。

 

 

 

だいぶ前置きが長くなってしまったので、そろそろ始めようと思う。

ただ、これから僕が書くのは、ひどいことのオンパレードである。

 

決して見ていて気持ちのいいものではないかもしれないので、気分が悪くなられた方は、そっとブラウザバックか今夜はブギーバックしてください。

 

 

さて、何から書こうか。

 

 

そうだ、著者のことに触れないわけにはいかない。

 

 

本書の著者は「田中泰延(たなかひろのぶ)」氏。

 

 

名前をスマホでぽちぽちとやり始めた刹那、さっそくひどい気分になった。

 

名前が変換予測で出てこないのだ。

 

 

くっ、こんなところから僕の行く手を阻むのか。

 

 

「やすのぶ」ならかろうじて出る。

 

しかし、正しい読み方は「ひろのぶ」だ。

 

「やすのぶ」で打ち続けることもできないわけではないが、それはどうも気が乗らないし、そんな失礼なことはできない。

 

僕は礼儀正しい男だからだ。

 

 

そこで辞書登録をすることにした。

 

これでいちいち変換でイラッとすることもなくなる。

 

それにしても、なんという手間。

しかも、このスマホを機種変するまで、貴重なメモリのいくばくかを「ひろのぶ」が消費し続けるのだ。

まったく、ひどい話である。

 

 

でも、待てよ。

 

名前で一番大事なことは、覚えてもらうことだ。

たとえばこれが、田中太郎だったらどうだろう。

 

たしかに覚えやすい。

ただ、忘れてしまうかもしれない。

 

しかし「泰延」と書いて「ひろのぶ」と読むのは、少なくとも僕の人生においては、この著者しかいない。

 

唯一無二。もう忘れない。

 

もしかすると、とてもいい名前なのかもしれない。

 

 

気を取りなおして、話を進めよう。

 

 

あらためて、著者を紹介しておく。

 

 

 

画像で失礼する。

 

 

本来であれば、きちんと引用符などで囲み、丁寧に文字を打って紹介すべきところである。

 

しかし、さきほど辞書登録というひどい目にあったので、ここは少し手を抜かせていただいた。

 

おいおい、もうちょっと詳しく紹介しろよ、という方は、ぜひ本書をお求めいただければと思う。

 

まずは購入することが大切だ。

 

 

『読みたいことを、書けばいい。』

 

 

本書は文章術の本である。

16万部のベストセラーである。

飛ぶ鳥を落とす勢いの本である。

 

当然、読んでいる人も多いし、ブックレビューもたくさんの人が書いている。

で、9割9分5厘6毛、文章術の本ではないと言われている。

 

は?

 

もう一度言おう。

 

 

多くの人に文章術の本ではないと言われている。

 

 

何ということだ。

文章術の本だと思って、買ってしまったではないか!と憤ったところで、もう遅い。

すでに会計は済んでいる。

 

そう、まずひどいのは、表紙と中身の印象の乖離である。

 

 

そもそも文章術の本とは何だろうか?

 

「てにをは」や「文章の修辞法」を教えてくれる本のことだろうか?

 

だとしたら、確かに本書は文章術の本には当てはまらない。

そんなことは一言も書いていない。

 

では、何が書いてあるのか?

 

著者のメッセージは、たった3文字に集約される。

 

 

 

そう「調べろ」だ。

 

つまり、書き方のルールではなく、書く上ですべきことと、書く上での心構えが書かれている。

 

そして、わざわざ書く必要がないことも教えてくれている。

 

 

じつはちゃんと「書くための考え方を示す本」と15ページに書いてある。

 

 

なるほど、それなら立派な文章術の本だ。

 

 

表紙と中身の乖離はなかった。

 

 

それなら、あなたにとって何もひどいことはないじゃないですか。

 

そう仰られるかもしれない。

 

 

いや、ひどいのだ。

 

 

なぜなら、「調べろ」と言われ、本書に書いてあることを素直に受け取ると、書けなくなるからだ。

 

 

僕はこの本を2019年8月17日に購入した。

 

 

それから約6か月。

 

 

何度、本書のことを書こうと思ったことか。

 

でも、書けなかった。

 

いや、正確に言うと、書いたけどボツにした。

 

3回ほど。

 

それくらい、書けなくなる。

 

 

勇気をもらったとかいう人がいる。

 

本当か?と思う。

 

 

・だれかがもう書いているなら読み手でいよう(p100)

 

・つまらない人間とは「自分の内面を語る人」(p140)

 

 

こんなのは恐怖でしかない。

 

 

ひどい、ひどいよ。

 

 

そうは思わなかったのだろうか。

 

本書に出会って、はじめて現実を突きつけられた気がした。

 

 

今回で4度目のチャレンジ。

 

なんとかカタチにすることができた。

 

ひどく時間がかかった。

 

 

と、自分のことを語るというご法度はこれくらいにして。

 

 

 

別の例をあげよう。

 

 

 

本書は文字が大きい。

 

この大きさがひどい。

 

近年、大人向けの本でここまで字が大きい本があっただろうか。

 

 

 

と、こういうことは、じつは書いてはいけない。

 

まず、近年というのがあいまい。

さらに、大人向けの本とは?

実際に、どれくらい調べたのか?

 

こういうことをきちんと説明できないと、本来は使ってはいけない表現なのだ。

 

それが文章に誠実であるということ。

 

こういうことに気づけるようになるのが、本書だ。

 

しかし、ここではあえて雑に論を進めよう。

 

 

文字の大きさの話だ。

 

この大きな文字に対して「読みやすい」という好意的な感想が散見される。

 

著者のやさしさと捉える向きも、少なくない。

 

 

本当に優しさなのだろうか?

 

僕はここに策を感じる。

 

 

本書を書店で手に取って購入した方。

 

この文字の大きさに惹かれたということは、ないだろうか。

 

 

「あ、読みやすそう!」

 

 

僕はそうだった。

 

 

そこが沼の入り口だった。

 

 

まず本書を読む。

 

そして、ウェブに散らばる、文章を漁る。

 

なんという幸せな…ではなく、時間を奪われる日々。

 

 

そこに費やした時間がひどい。

 

来る日も来る日も寝不足である。

 

 

しかも、この読みやすさ、じつは厄介だ。

サーっと文章を流して読んでしまうからだ。

 

 

落ち着いてじっくり読むと、じつは深いことを言っているなんてことが、本書にはたくさんある。

 

よくよく考えてみると、なんだかおかしくて笑えるなんてことが、随所にちりばめられている。

 

 

「読みやすいのも考えものじゃないですか?」

 

 

と軽く問い詰めたい気分である。

 

 

 

それと、もう一つ。

 

 

ボケである。

 

 

これでもかこれでもかっ!というくらい、ボケている。

 

最初のページから最後のページまで、ボケ倒している。

 

大オチとかマジでビビる。

 

ひどすぎる。

 

 

こんな本があっていいのか?いや、もうすでに本になっているからいいのか…と一人で納得せざるを得ないくらい、ボケでこちらの常識を揺さぶってくる。

 

 

そして、だんだんと気持ちよくなってくる。

 

 

これはある種のクセになるアレと同じである。

いや、この例えはよくない。

ダメ、絶対だ。

 

 

えーっと、えーっと…

そうだ!

 

噛めば噛むほど味が出るスルメみたいな本なのだ。

 

 

つい先日も、新しい発見があった。

 

僕がTwitter でおすすめですよとツイートしたのを受けて、ツイ友の女性が本書を購入した。

なんでも読書習慣がないのだけれど、おすすめされてるし、売れてるみたいだし、字が大きいしということで購入に至ったらしい。

 

まんまと術中にハマっている。

 

念のため、糸井重里氏の本ではないことに気付いているか確認したところ、それについては大丈夫だった。

 

 

一連のやりとりの最中にこのRTが飛んできたのにはビビったが。

 

僕は、読み終えたら書名か著者名を添えてツイートすることをおすすめした。

 

彼女は大変鋭い感性の持ち主で、本文のある一節のおかしみに気付き「爆笑」の二文字と共にツイートした。

 

僕は「あ、たしかに!」と、また新たな発見に気分が高揚した。

 

 

ここで僕は一つ彼女に伝え忘れていた。

 

 

著者はTwitterの住人を自負する人物であるということを。

 

僕が本書の感想をツイートした時の、レスポンスの早さと驚きと感動を。

 

 

案の定、著者がこの機を見逃すわけはなかった。

 

 

彼女の鋭い指摘に対して、しっかりとコメント付きRTならびにリプにもご本人登場!というサプライズ。

 

もちろん、ボケることも忘れずにである。

 

著者をよく知らない彼女は、あわわ、とかなり驚いていた。

 

 

この点については、あらかじめお伝えしておけばよかったと、反省している。

 

この場を借りて、お詫び申し上げておきたい。めんご。

 

 

 

ちなみにここまで連発してきた「ひどい」という言葉。

 

 

とてもネガティブな表現のように聞こえるが、じつは別な意味もある。

 

「程度がはなはだしい、はげしい」という意味だ。

 

ひどく気に入る、といった表現は、聞き覚えがあるのではないだろうか。

 

 

そう、本書はおっとり見せて、じつは激しい文章術の本なのだ。

 

程度がはなはだしいレベルの良書といってもいい。

 

 

だから、何度も何度も読むことになるが、これはこれで、またひどいことになる。

 

 

僕の時間が奪われていくのだ。

 

すでに通読で10回以上読み、さらに拾い読みだと数え切れないくらい読んでいる。

さらに今後も、折に触れて、まだまだ読むことだろう。

 

一冊の本にどれだけ時間を使うことになるのだろう。

 

おそらくこれも、ひどいことになるに違いない。

 

 

だったら読まなければいいだろう、というご意見。

ごもっともである。

 

しかし、本書はアレなので抗えないのだ。

 

無理をすれば反動がやってきて、もっともっと読みたくなる。

 

何なら、著者の言う通り、もう何冊か買ってしまいかねない。

 

 

あれ、ちょっと自制がきかなくなってきたぞ。

アレとか言っちゃダメだって、あれほど言ったのに。

 

 

これ以上続けると、とんでもない過ちを犯してしまいそうな気がするので、ここらで失礼することにしよう。

 

 

最後にこれだけは言っておきたい。

 

唐突だが、僕はミニマリストだ。

できるだけ部屋にモノを置かず、きれいにしておきたい人間だ。

 

なのに、

この本は手放せそうにない。

 

場所をとる。

 

やっぱりひどい本である。

 

 

 

 

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