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自分の死は体験できない

とくとく日記
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今日は仕事が休み。

奥さんと子どもたちは1泊旅行。

つまり家には、ぼく一人。

 

やっほい!

やりたいことやっちゃうもんね。

 

というわけで

7時間ぶっ通しでYoutubeライブを見ました。

 

何やってんの?

 

まあまあ、いいじゃないですか。

こんなことは滅多にないんですから。

 

『SNS医療のカタチTV やさしい医療の世界』という番組だったんですけどね。

 

現役の医師たちが情報発信をしている「SNS医療のカタチ」というチャンネルの拡大版として企画された番組。

 

1時間×7つのセッションがあったのですが、その5つ目に「医療と和尚の、あうんの呼吸。」と題された座談会がありました。

 

これがもう本当にすごかった。

 

登壇者は

 

高野山高祖院住職 飛鷹全法和尚

漫画家 おかざき真里氏

編集者 たられば氏

病理医ヤンデルこと市原真氏

 

と、人文、社会、宗教、医学の異種格闘技戦みたいなメンツ。

 

知恵熱でオーバーヒートするかと思いました。

たぶん湯気くらいは出ていたはず。

 

「この話、すげえな…」

 

と何度思ったことか。

 

その中でも特に印象に残ったのが、飛鷹和尚の言葉。

 

 

自分の死は体験できない

 

 

うわぁぁぁーーーー、確かにッ!

 

当たり前すぎて、全然気づいてませんでした。

 

死について考えることは生について考えることだ、というフレーズは、どこかで目にしたことがあるんじゃないですか。

 

これはもう全くその通りで、死について考えることには意味があるんです。

 

ただそれは「誰かの死」を通して考える「自分の死」なんですよ。

 

でね、実際に考えているのは死そのものではなくて、死にむかう過程のことだったり、死後の家族のこととかなんですよ。

 

それって、過程についてはその時その時でやれることを一生懸命やればいいわけだし、死後については自分はもう死んでるから、あんまり関係ないんです。

 

だから、このフレーズで「自分の死」について考えるのはあんまり意味ないってことに気がついてしまった。

 

だって、そうじゃないですか。

体験できないことなんだから。

その時には、もう死んでる。

 

ぼくらは生きていて、いろいろなことを体験しますし、体験したいと思っています。

 

でも、それはすべて「生きている」という前提がある上に成り立っているんです。

 

体験には「いいもの」と「そうでないもの」があります。

 

いい体験は、嬉しかったり、楽しかったり、気持ちよかったりすること。

そうでない体験は、痛かったり、苦しかったり、辛かったりすること。

 

どちらにしても、体験を次につなげるという発想は「生きている」からこそなんです。

 

だから、体験できないことにあれこれ考えを巡らせても、出てくる答えにあまり意味はないんですよ。

 

 

飛鷹和尚は、死のとらえ方を問われて、「死についてそこまで深く考えずに、むしろ生を考える方を重視する」とも言っていました。

 

病理医のヤンデル先生こと市原真氏も、死体を検死している時に考えているのは、死そのものではなく、その死をいかに生にフィードバックするかということなんですって。

 

要するに、みんな考えているのは「生」なんだということ。

 

人間は生まれた時から死に向かって歩いているわけですけど、体験できない死については、どうしたってやってくるので、あれこれ考えても仕方ない。

 

自分が体験できるのは「生」だけです。

 

だから、今を生きるぞ、とあらためて思いました。

 

 

あ、それと、おかざき真里先生の『阿・吽』が面白そうでした。

今度、読も。

 

 

■今日のとくとく

自分の死は体験できないことを知った

 

 

アーカイブ配信がないので、たられば氏のまとめのリンクを置いておきます。興味がある方はどうぞ。

>>「医療と和尚の、あうんの呼吸。」まとめ

 

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